1月24日から26日の間に考えたこと

・人生において確信とはどうやって得れるのか。またどうやって得ればいいのか。

 

・価値は自分が与えるべきか。それとも社会が与えるべきか。

 

・なぜ共通点を根本において考えようとするのか。全ての根底にあるものは何か。

 

今までここには主に「なぜ?」と呼ばれるような問いばかりをただ並べてきた。しかし、実際に質問を角のはGoogleのメモでできる。なので、これからここには考えたことをそのまままるきり書いていこうと思う。

このドキュメントを開き、ただ考えたことここに述べる。

これが何の役に立つのかなどは今の私には全くわからない。しかし、常識やずっと続けていることについて疑問を持ち、問うという行為は必ず人を新しい世界へと導いてくれると思っている。だから、この考えすらも疑うことができるのだ。また、この常識を疑うという行為はもしかしたら社会の日常にも必要になってくるのだと思う。実際、この社会は(私が見てきた社会)考えることをやめさせるように上手いこと成り立っている。それは自分が経験したことだからこれが根拠だ。(だが、これはあくまでも私の今2024ねん1月24日の考えなので、この先の未来では考えが変わっているだろうが)とりあえずこのノートに私の考えをただひたすらに書いていこうと思う。

 

ただ、毎回思うことがある。この真実を追い求めていった先に何があるというのだろうか。

 

私たちはいつも生きている。その生の中に目的は存在している。そもそも人間は生き残るという目的があるため生きている。今生きている人たちは生きるという目的を達成し続けているといえるだろう。たが、今の人は人生が退屈にならないように何か仕事や学問や遊びをしたりして暇つぶし(?)をしているようにも思える。だいぶ話がずれてしまったが、今の結論としては追い求めた先には何もないのだろうと思っている。結局根源は何かと求めていっても人が欲するような答えは返ってこないと思う。なぜなら、私は全ての根源にあるのはこの現実なのだと思うからだ。今の現実が何故そうなっているのか。なぜ鳥は空を飛んでいるのか。それを見て私たちはなぜ空を飛んでみたいと思うのか。なぜ私たちはそこで鳥を見たのか。それらの答えを全て探り当てても結局かえって来る答えは偶然なのだろう。そもそも私たちは目的のために作られたモノではない。人工知能などは人間の生活を豊かにするために作られた。人工知能にとって人間は神であり、目的を与えてくれる存在だろう。しかし、人間にはそういった存在はいるだろうか。恐らくそうさせたのは偶然なのだと私は思う。しかしこれも一つの視点でみた人間の目的とその根源の話である。見方を変えて見るとまた違った答えは現れるだろう。その別視点は恐らく東洋哲学の考え方にあると思われる。これは悪まで私自身の予想だがな。

 

では、私たちは何のために生きているのだろうか。私はこの問いについて問い続けているがしっくりした答えは見つけることができない。生きる目的の案はいくつも出てくるのだが、それが本当に自分にとっていいのか。ここで疑問がたくさん生じる。そもそもしっくりした答えを求めることがいいことなのだろうかということ。中途半端で曖昧な目的はなぜ批判されるのか。他にも自分にとって正しいということはどういうことなのか。その自分を掘り下げっていくと社会にとっての正しさにならないだろうか。もしそうならそれが自分にとっての正しさなのだろうか。また、自分にとっての正しさは何処で見つけられる。色々と最初の問いから問いが生まれてしまう。なのでこれらの問いを全て見つけたら、求めていた答えが見つかるのか。結局問いは終わらない。これは永遠のサークルなのかもしれないと私は思う。またそのサークル自体が答えなのではないか、とも思う。結局同じところをくるくる回っていても一向に新たな道は開けない。なら一層それ全部を答えとするという考え方だ。しかしそれでいいのか。哲学は終わらない。結局ずっと見えないところを歩いている。

by1月24日




1月25日



今から私の将来について考えていこうと思う。まず、ここでの将来の定義だが自分の人生において、どの様な人生を歩んでいくのかという見えない先のこと。これが将来と定義したいと思う。そして考えていきたい。とここで疑問を問いかけたい。将来について考えることは今の自分に必要か必要でないか。まずこれについて考えるとしよう。将来について考えるという行為は自分の見えない先のことを予定づけるということだ。これにより、その予定したことに向かってこれから歩んでいけばいいので、何か目的を見失って不安になったりすることはないだろう。しかし、先に予定を作ることが良くないところに働く場合がある。例えば、自分が決めた未来の予定を達成できなかったときだ。もし皆がそうなったらどう感じるだろうか。恐らく多くの人は達成できなかったことにより不安になったりがっかりしたりするだろう。両者に共通することとして、いずれも不安やマイナスな感情に襲われる場合があるということだろう。目的が達成されればうれしい気持ちになる。予定を立てなければ、、、とここで思ったことがある。予定を立てなかった場合にうれしいとかプラスに感じる現象は起こるのだろうか。そもそもうれしいと思ったりする感情はどういう場合の時に生まれるのだろうか。またそのうれしいというのは人間の本能に関係しているのだろうか。全ての事象の根源には何があるのか。うれしいと感じるときいい気持ちになるのは本能のせいなのだと思う。結局人間の生き残るという目的のために原始時代に出来上がった何かなのだろうと思っている。話が脱線してしまったが、将来の目標を決めるという行為は何かいい気持ちを得るために行われる行為なのだと思われる。また、何かを求めるという行為だ。これは結局人間の本能に帰すると思う。結局どちらがいいとかそういうモノはないということである。いいか悪いかはやはり自分が決めるべきなのか。自分の人生の中で夢を決めた方がいいか。予定を立てた方がいいか。それは自分で決めるべきである←何故そう考える。

ここで社会についても考えてみよう。

社会とはいえど、色々ある。学校の人だったり、サラリーマンだったり教授だったり人の種類は人がいる分ある。ではどれについて考えようか。そもそも社会に対して何かを考えるのは何につながるのか。個人的に100パーセント社会に尽くしたい!絶対役に立ちたい!という人はいないと思うのである。結局は本能という欲求に帰すると思われる。人は人の欲求を求めないと動かないと思うのだ。社会に尽くしたいといっている人もそれは社会に尽くしたいという自分の欲求を求めているといえる。人間である以上欲求と言うものはどこにでもついてくるのだろう。だからなんだよって話なのだが。しかしこれも常に疑わなければならない議題である。

 

これからまた違う議題について考えていきたいと思う。そもそも鋭い問いが鋭い答えを生むみたいなことを誰かが言っていた気がする。ここで思ったことがある。鋭い問いとはなぜ生まれるのか。鋭い問いというのはアイデアの一種なのだろうか。そもそも問わないと始まらない。なら問は問いを生むのか。今ふと思ったアイデアがある。物事を問うていくことを繰り返すたびに、問いの鋭さ(問いの質)はどんどんと上がっていくのではないだろうか。

ということでこれについて考えていきたいと思う。問いをすると質が上がるといったが何故質が上がるのだろうか。考えることができるものとして、問うという行為によって新たな答えがどんどん問えることができる。ということは知が増えるということである。知が増えることによって新たな視点が見つかり、鋭い(いわゆる質)を向上させることができるのではないだろうか。しかし、本当にそうなのだろうか。今これを書いているとき、私自身あまり思考をしていないと考えている。散歩をしたりするときには思考に集中できるため、思考はとても深いところまで行く。しかし、こうやって文字を書いているときには思考はあまり深くならず浅い状態にあるのではないかと思っている。つまり、先に書いたことは深い思考をした上で書いた素晴らしい一品ではなくて、ある一つのアイデアを作りそこから私の常識の思うがままに予想したものである。だから、これについては深く思考する機会が必要だと思う。話がずれてしまいそうだが、文章を書くメリットとして、思考は浅いが長いこと思考をすることができる。これがメリットだと考える。散歩するときの思考に比べれば浅いが、その分散歩するときよりも思考する時間が長く感じる。というか不思議なものだ。この文章を書いているときには思ってることがどんどんと出てきて書くことができるのだ。なんでだろうか?新たな発見だ。学校のこの暇な時間もしっかりと思考をすることができる方法を見出してしまった。  しかし少し話がずれてしまった。

 

なぜ視点が広がると質がいい問いが生まれるといえるのだろうか。視点が広いと見えてくるものは違うだろう。それは価値観の違いによって全てが全ての人に順序づけされているということも見えてくる。このように問いばかりを発してわからなくなるのを防いでくれるのだろうか、問うという行為は。

 

しかし、疑問と言うモノは自主的に疑問はないかという主体的な姿勢がないと生まれないモノなのか。ただごく普通に生きているときには疑問はうまれないのか。

私の経験上、疑問はないかと探すだけでは問いは生まれないと思っている。そうではなくて、視野を広げて意識的に何かを意識することが必要だと思われる。その何かというのは主に常識や当たり前と思っていること。この世界を作っているといわれていることなどだ。これらを意識し、本当にそうかと問うてみる。するとどんどん問いが生まれてくると思うのだ。

 

ちょっと話題を変えたいと思う。今回の考える議題は「無理やり何かをさせるのはいいのか」

 

今、思考をしていて浮かんだアイデアがある。そもそもこの世界は偶然でできていると思っている。皆が想像するような神はいないし、また物事の答えも用意されてはいない。だから、「今」この瞬間に生きている私たちが答えなのだ。今考えたことが答えでそれは自分が証明をしている。

というアイデアだ。これを見て皆は何を考えるだろうか。

 

1月26日

 

さて、今日は何について考えようか。今は学校ん六時間目で今までの授業では上手いことこの思考するノートを記入することが難しかった。そういえば今日は哲学カフェに行く予定がある。なのでせっかくだから哲学カフェのことについて哲学しようと思う。私は哲学カフェはまだ行ったことがない。だから今日行く予定の哲学カフェが初めての参加である。予想しているものとしては皆がのんきな感じである議題についての考えを共有したりするところだろう。ここで議題を思い浮かんだので問うてみようと思う。

思考をするときに誰かと対話をしているときには思考はできるのだろうか。一人で思考をするときと皆で何かを一緒に考えるのではどちらがその人にとっていいだろうか。私個人の考えでは一人での思考と他者との対話での思考では上手いことバランスを問って行うべきだと思っている。何なら他者との対話の時には思考をするのはやめて自分の本当に思っていることを素直に共有する場であると観ている。どこかで聞いた話がある。人は誰かの話を聞いているときには自分自身で思考するのをやめると。それが本当なら他者との対話をしているときは本来は人はその話に集中し、自分で考えるのをやめるということだ。ならこの本能に逆らって無理やり考えようとするのではなく、この特性を上手く活用し他者との対話の時は話を聞くことに専念し、のちに一人でその他者との対話で得られたものを意識し考え直す。これが個人的にはいいと思っている。そうすれば対話の中で感情による言い合いなどは起こらない。他者の意見を受け入れ、疑問に思ったことには素直に問うて、それをその人の考え方なのだなと受け入れる。これによって何がいいのか。まぁこれも一つの考え方というわけである。

逆に話ばかりをしていては自分で考えることが出来なるということだ。

それでは

何がいいかは何で決まるのか?

ある学生が学問を学んでいたとしよう。その学生は将来学者になりたかったため物理学を物理学だけを学び続けていた。そして物理学の知識量はとても多くなった。

そこで考えてみたい。この物理ばかりを学んでいた学生はいい学者になれただろうか?

「いい」というのは今の私はその人が持っている目標や価値観によって変わると思っている。これなら土台が曖昧なため土台を固めたいと思う。 ここでの「いい」というのは問題発見力、問題解決力が高いことを「いいこと」としよう。「ここで土台を固めた瞬間に、答えはほとんど決まった。」

では先の問いででてきた、この学生は問題解決力や発見力が向上しただろうか。

私はそうは思わない。問題解決力や発見力が何をすれば向上するか考えていることは人それぞれだろうが、私はこれらの力を上げる大きなパーツが客観視する力だと思っている。

大体理由は想像できるだろうが、客観的に観れることにより視点が広くなる。広くなるということは見えてくることも増えるということである。増えるなら問題の発見も早くなるということである。

 

しかし、この客観性というのも興味深くこれを延ばすための材料は知識か経験か直観か。